2009年12月10日
サハラ交易の衰退
イスラーム時代の交易は、ヒトコブラクダ (アラビア・ラクダ Arabian camels) のキャラヴァン (隊商) によって
行われた。これらのラクダは、キャラヴァンへと集められる前に、マグリブまたはサヘルの草原において、何ヶ月間
も肥育された。キャラヴァンに同行した探検家であるイブン・バトゥータ (Ibn Battuta) によれば、キャラヴァン
の平均的な規模は、一隊当たり千頭のラクダから成るが、1万2千頭に及ぶものもあったという。キャラヴァンには、
砂漠に詳しく、仲間の遊牧の民に通行の安全を保証させるベルベル人のガイドが高い報酬を得て付添った。キャラヴ
ァンの成功は不確実であり、細心の手配が必要だった。キャラヴァンは旅程すべてに必要な水を運んで旅することが
出来ないため、オアシスがなお何日も先のうちに使い走りがオアシスに先回りし、水を確保するようにした。
西アフリカ沿岸をポルトガル人が往来するようになり、ヨーロッパと西アフリカの間に新たな交易路が開かれた。16
世紀初頭までに、ヨーロッパ人の拠点が沿岸に設けられ、西アフリカにとって富裕なヨーロッパ人は最も重要になっ
ていた。サハラ縦断はなお長期の不確実なものであったが、北アフリカが政治的にも経済的にも衰退していた。しか
しサハラ縦断交易に対する重大な打撃は、1591年-1592年の「モロッコ戦争」であった。モロッコはサハラ砂漠を越
えて軍隊を送り込み、トンブクトゥ、ガオ、そしてその他幾つかの重要な交易中心部を攻撃し、建物と財産を破壊し
著名な市民を追放した。この交易に対する破壊行為が、これらの都市の重要性を劇的に衰退へと導き、その結果生じ
た敵意が交易を大きく減少させた。
大きく減少したとはいえ、サハラ交易は継続した。しかし、西アフリカ海岸への交易ルートは、特に1890年代のサヘ
ルへのフランスの侵略と、その後の内陸部への鉄道の敷設以降ますます使いやすくなって行った。ニジェール川湾曲
部を経由するダカールからアルジェへの鉄道線は計画はされたが、建設されなかった。1960年代における、この地域
の国々の独立と共に、北と南を結ぶ複数のルートが国境の存在により厳しい状況となった。各国政府は、トゥアレグ
族の民族主義に対し敵意を抱き、サハラ交易を維持し支えるための努力をほとんど行わなかった。また1990年代のト
ゥアレグの叛乱、そしてアルジェリア内戦により多数の道路が閉鎖され、ルートを一層荒廃させた。
今日では、少数のタール舗装道路がサハラ砂漠を横断しており、限られた数のトラックがサハラ交易、特に塩の運搬
を担っている。伝統的なキャラヴァン・ルートは、ほとんどがラクダを使っていない。しかしアガデズ (Agadez) か
らビルマ (Bilma) や、トンブクトゥ (Timbukutu) からタウデニ (Taoudenni) への距離の短いルートは、軽量な場
合は、なお定期的に利用されている。トゥアレグ族の一部は伝統的な交易ルートをまだ使っており、ラクダによって
サハラ砂漠を縦断する毎年六ヵ月間に亘る1,500マイルの旅を行い、内陸砂漠から砂漠縁辺の集落へ塩を運んでいる
。
『ウィキペディア(Wikipedia)』引用
地中海沿岸諸国と西アフリカのあいだの交易をこのように呼びました
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